【No.74】自分の欠点に感謝した日
「自分の欠点には意味があり、感謝するときがある」
なんて言葉を聞いたことはあります。
頭ではワカルけれど、正直、ピンときていませんでした。
私は、子どものころ、吃音(きつおん)がありました。
(今でも、まれに出ます)
小学生のころから出始め、
イヤで、イヤでたまりませんでした。
自分の苗字が、私にとって特に言いにくく、どもってしまいます。
最初の自己紹介にいきなり、そんなかっこ悪い姿を見せたくないのに、
すんなり言えない。
小学生のころ、放送部にあこがれていたのに、
こんな吃音では、入れません。
吃音をうらんでいました。
吃音とはいえ、私は子どものころから、
よくしゃべる方ではありました(笑)
「私は、おしゃべりだから、
神様が、私にしゃべりすぎないよう、
吃音を与えたのかもしれない」
と、自分を必死に納得させ、慰めていたことも。
その時々で苦手な言葉はあるのですが、
一貫して苦手なのが、「あ」から始まる言葉。
「赤色」
と言おうと思っても、
これは、どもりそうだと感じると、
「信号で、黄色の次の色」
「リンゴの色」
なんて、ごまかしていた記憶があります。
社会人になって、電話に出るときも、
「ありがとうございます。○○(会社名)でございます」
と言うように指導されていたにも関わらず、
「はい、○○(会社名)でございます」
と、言っていました。
(ありがとうと言えない分、明るい声で言っていました)
困ったのが、会社のセミナーで司会をしないといけないとき。
定番の決まり文句に、「あ」が入っている!
「本日は、お忙しい中お越しいただきまして、
誠に“あ”りがとうございます」
普段は言えるのに、
改まった席では急に危険信号が発令される…。
ある日、私にとっての「秘技」を見つけました。
“あ”を言わなくても、通じるかも。
「本日は、お忙しい中お越しいただきまして、誠に、りがとうございます」
と、頭を下げながら言えば、違和感なし! (多分)
涙ぐましい努力(?)をしつつ
セミナーの司会は、数年ごまかし続けていました。
そうして、数年前。
ある本を読んでいたら、
私にとって、大いなる救いとなる文章に出会ったのです。
作曲家の武満徹さんのことを書いた文章のなかで、
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少年期に吃音とむかいあった人でもあったが、
それがかえって音楽はもちろん、思索にも言葉にも活動にも、
深い蓄積をもたらした。
(省略)
ある言葉をしゃべろうとしたとたんにその言葉が射出されないため、
いつも言葉とアタマの中の意味とが辻褄のあわない
合わせ鏡のようになっている。
ところが、それが不思議なことに、
意味の海からひとつの言葉を選ぶよりもずっと
多様なイメージに向き合わせてくれるのだ。
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『知の編集術』 松岡正剛・著
文中には、著者である松岡正剛さん(編集者、著述家、日本文化研究者)も、
羽仁進さん、大江健三郎さんも吃音だったと書かれているではありませんか。
大いなる勇気をもらいました。
私が、今、インタビューだったり、書くことだったりといった、
言葉にこだわった仕事をしているのは、
吃音が少なからず影響しているかもしれないと思えた瞬間でした。
そうかもしれないし、違うかもしれない。
違っててもいいんです。
思い込んだもん勝ちですから(笑)
「自分の欠点には意味があり、感謝するときがある」
やっと訪れた日でした。
あたなにも、ありましたか?